2015年11月27日

NY5日目:エリス島 移民博物館 その1

2015年10月6日(火) エリス島 移民博物館 その1

リバティ島からエリス島へは、フェリーであっという間に到着しました。


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もうお昼を回っていたので、ここは多くの人がいました。

本当は、お昼過ぎくらいまでにリバティ島エリス島を見学し終えようと思っていたのです。

しかし、この博物館をナメてかかっていました。超巨大でした。

ささっと見て次にWTC跡地に行くつもりだったのが、興味深い展示内容で全然流せない!
それでも泣く泣く急いだものの、予定を大きくずらし、15時位のフェリーで帰りました。

本当は、あまりにもNYに来てから夜が遅くてツラいので、自由の女神は見るのやめようか
とさえサラミ夫と話していた位、自由の女神は優先順位の低い目的地でした。

が、リバティ島行きをやめると、自動的にエリス島の移民博物館も取りやめになります。
エリス島には絶対行きたい!という訳でここにやって来たのでした。

それは、映画「ゴッド・ファーザー パート Ⅱ」でエリス島のシーンを見ただけでなく、
NHKの「アメリカ・魂のふるさと」という番組シリーズで、「エリス島~新天地への希望~
という回があり、昔のエリス島のことを特集していたのを見たからです。

そこまで、このエリス島移民博物館を見学したかったのに、何も知らなかったとはいえ、
自由の女神でボケーっとゆっくりしてしまったのを今更ながら後悔。

こんなことなら、リバティ島には上陸せずにまっすぐエリス島に行っても良かったかも知れない
とさえ思いました。まあ、せっかく来たんだから自由の女神も間近で見ましたけど。

まず、このエリス島ですが、1892年から1954年まで60年余りの間移民局が置かれ、
新天地を求めてやって来た移民達は必ずここを通過しました。延べ1200万人にもなるとか。

とは言っても実際は、一等船室と二等船室の乗客の審査は船内で行われたとかで、
ここに上陸したのは三等船室以下の人達だったようです。

ここ移民博物館は、その移民局の歴史や、その他移民についての広範に渡る資料や
歴史・データなどを展示しています。その内容たるや膨大でした。


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建物の中に入ると大きく展示内容が書かれた看板が。こ、こんなにあるんかい。(汗)

移民局についての展示は2階3階で、1階アメリカ移民やその歴史に関する展示でした。
しかし、こんなに色々あるのだから、まずササッと1階を見て回ろうということに。

まずは、年代順に進み、1550年-1890年の移民の展示へ。


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話は1500年代の宗教改革から始まっています。

アメリカ最初の移民はピューリタン(清教徒)なのだからこの説明は当たり前として、
これを英語で全部読んでいたら時間が足りないので適当にスルー。

ここも日本語のオーディオガイドがあるのですが、聞いていると時間がかかるので、
私達は展示の説明文をザッと読むにとどめました。

初期の移民はヨーロッパの北部と西部からで、ジャガイモ飢饉によるアイルランドからの
大量移民など、大きな移民の流れが取り上げられていました。


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AGAINST THEIR WILLS」(意思に反して)と題された展示。先住民族や奴隷などです。

17世紀から19世紀初頭まで、アメリカにやって来た人の半数以上が「意思に反して」来た人
(つまり強制的に連れて来られた人)だということです。むちゃくちゃ多くないか、これ?

植民地の支配者に抵抗した先住民族の人達が、奴隷としてカリブのプランテーションに送られ、
二度と故郷へは戻れなかったという話は今まで知りませんでした。

殺されるよりマシだったのか、殺された方がマシだったのか。

19世紀の半ばまでには、南欧東欧アジアなど、新しい地域からの移民が
アメリカにやって来るようになったとか。

もちろん、日系移民中国系移民の苦難の歴史も展示されていました。


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1884年日本政府は海外への移住禁止を解除したとあります。

1884年は明治17年なので、解除が随分と遅いなあという印象です。
それ以前の移民というのは、明治に入ってからも依然として密航だったのですね。

想像するに、明治政府はきっとそれどころではなかったのでしょう、この時代。

翌年(1885年)、多くの日本人がハワイへ契約労働者として渡ったそうで、
当時のハワイの為政者がカメハメハ王室と書かれているところに歴史を感じます。

旅行から戻って調べてみたのですが、この頃の移民は「官約移民」と呼ばれたそうな。
政府が斡旋する移民ということらしいです。えらいトラブル続出だったとか。


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「移民がいかにアメリカに適応しつつ固有の文化を保持していくか」という展示でも、
ISSEI」(一世)という言葉と共に、再び日系ハワイ移民の話が取り上げられていました。

厳しいプランテーションでの生活を生き抜くために互助会を作って助け合い、
お寺を立て、庭をこしらえたり天皇誕生日を祝ったりと、日本での習慣を引き継いだとか。

そして、写真花嫁(Picture Bride)の話も。

20世紀に入ってからアメリカでは日系移民への排斥の動きが高まりました。
そして日米紳士協定が締結され、アメリカへの移民が原則禁止に。

ところが、すでにアメリカに在住している日系人の家族は協定の適用外だったので、
写真だけで見合いをし、会ったこともない相手の元へ花嫁が嫁いでいくという写真花嫁
という制度がこの頃盛んに行われたとか。

実際は、相手の男性は年を若くごまかしていたり、財産もなかったり、
写真花嫁は苦労を伴うことが多々あったようです。

この辺りのお話は、私は「ピクチャーブライド」という映画を見て知りました。
主演の工藤夕貴がものすごく華奢だったので、余計に過酷な運命が強調されて見えました。

しかし今調べたら、この映画のDVDはもう廃盤になって久しいのですね。
有名作品ではないですが、歴史を学べる大事な作品だと思うし、再販してくれないかなー。
ま、大部分が日本語なので、輸入盤の英語字幕でもいけるんでしょうけど。

一方の中国系移民ですが、こちらは日系人より早く移民が始まり早く禁止されたわけですが、
そこまで言うかっちゅー位の差別ぶりで、同じ東洋人として憤りを感じます。


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こちらの展示は、確か実際に音声を聞いてみようというコーナーだったと思います。

1852年の中国系のリーダーが必死に中国人の良さをアピールしている文章に対し、
1877年のカリフォルニア議会の中国系に対する差別のひどさにお口があんぐり。

直訳すると、中国人はアメリカの「文明(的生活)」の基準を満たすことができない
という(私が訳すの下手ゆえに)イマイチな文章になりますが、
私は「incapable」という単語がものすごく引っかかりました。

私には、アメリカ生活に適応できるだけの知的能力がないという風に感じられました。
向いている・向いていない、ではなく、人間として能力的に劣っているという具合。

奴隷などを人間と扱っていなかった時代、黄色人種もまた人間とは
みなされていなかったのかも知れません。実際「黄色いサル」呼ばわりだったし。

civilization」という言葉がわざわざ括弧つきなのも気になります。

アルクの英辞郎(ネット辞書)で改めて「civilization」を調べてみたところ、
知的、文化的、物質的に発達した社会の状態という説明が載っています。

苦力(クーリー)として奴隷同然の扱いを受けていた中国系移民は、
「サル並みだからアメリカの高度な社会に溶け込めない」と思われたのでしょうか。

アメリカの鉄道敷設などに虫ケラのようにこき使われた中国系移民の人々は、
ある意味日系人以上に強烈な人種差別を経験したことが、この展示から想像されました。


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そして、このようなアジア系への排斥運動が起こります。

アジア系がいかにも遅れた人種だみたいな差別的な書き方もムカつきますが、
当時はまあそういう時代だったということで。


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これまで日系移民にまつわる暗いところばかり食いついていましたが、
黒人音楽の展示などという楽しいものもありました。(歴史は暗いけど)

色んなジャンルに分かれ、全部サンプルを聞くことができました。
時間がないのであくまでもチョロっと聞いただけでしたが。

しかし、ここはあくまで1550年から1890年までの移民にまつわる展示です。
ササッと見たつもりでも、えらく時間がかかってしまった・・・。

エリス島の歴史とは違うので、本当に急いでいて移民局の展示だけで良いのであれば、
思い切ってここを飛ばすしかないかも知れません。でも飛ばすなんてもったいない・・・。

1階にはまだまだ、1945年から現在までの移民の展示や、
過去の移民のデータベースを調べられるコーナーなどがあります。

しかし、移民局の展示を見なければ本末転倒なので、
ここまで見たところで、私達は2階移民局の展示を見に行くことにしました。

いつもの癖で長くなったので、次に続きます・・・。(^^;



posted by サラミ at 20:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 15ニューヨーク | 更新情報をチェックする
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